ある町医者の診療日記

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zoom RSS 「安心」を政策課題や目的としてはならない

<<   作成日時 : 2008/01/05 11:58   >>

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「診療関連死」について、厚労省の第二次試案に対し、日本医師会や一部の医療関係団体は賛同しているようですが、インターネット上は反対一色と言っていいような状態です。
私もロハス・メディカルブログでその経過を読んでいて、こんなんでいいのだろうかと強い不安を感じていました。あまりにも杜撰、あまりにも拙速、これでは今以上に医療破壊を促進してしまうのではないかと恐怖さえ覚えた。そこに小松秀樹の「日本医師会の大罪」と題する檄文が出、これが簡潔に問題点を指摘するものであったので、広くブログで取り上げられた。私もブログで紹介した。

しかし、じゃ、どうすべきなのか、今のまま、司法のトンデモ介入をそのまま放置しておいていいのかと言われると、私もよく分からない。
司法の論理を、本来は別物であるべき医療の世界に持ち込んで、ある医療行為を正しかったの、間違っていただのと判定する。それも法律という絶対権力を背景にして。
こんなことをしていては医療を歪めてしまう。一足先を進んでいるアメリカでは、その歪んだ医療が、医療費の高騰や医師不在(例えばより安全な他州への産科医の逃亡という産科医不在)という形で現れている。日本では、医療費は国家で管理されているので医療費の高騰は起こらないでしょうが、そのかわりに防衛医療という形で現実の世界に出現してきている。そして医師不在は、アメリカ以上により顕著に顕在化しつつある。
今のままでは、この防衛医療と医師不在という歪みは不可避としか思えない。

その上、この第二次試案、そしてそれとほぼ同じ内容の自民党案です。こういう医療行為に復讐の論理と司法の論理を持ち込むことをしていては、医療破壊以外の何者でもない。医療破壊促進法以外の何者でもない。
こういう法律が実行されたら、ごく一部の無謀な医師以外は危険な医療行為を避けるようになるだろうし、強制されれば立ち去るしかなく、それは医師不在という形で現れ、結果、受益者であるべき国民が医療行為自体を受けられないことになるでしょう。

なぜこういう間違った政策が国家や与党から出てくるのだろう?

患者や遺族が復讐の論理に駆られるのは分かる。身近な他人である医療従事者、特に医師を敵と見なすことは、自らの悲しみから逃れる一番手っ取り早い手段です。悲しみを攻撃衝動に変え、その上、慰謝料とか賠償金という報酬まで得られるとなれば、誰だってやろうと思うでしょう。自分たちを悲劇の主人公と見なしてくれる大衆もいるし、そこに弱者を守っているのだというような正義の執行者ずらした弁護士や裁判官も加わってくれる。特に司法の力は絶大です。正義感に燃えた裁判官が、医療者側のアラを、重箱の隅をつつくがごとく、さらにどうしてもアラが見つからなかったら、最後の手段、「説明義務違反」という最終兵器を使ってくれて、トンデモ判決を出してくれる(参照、トンデモ判決の4類型)。

しかし、国の政策として、なぜ医療にこういう復讐の論理を持ち込もうとするのか分からない。
それほど、この国がバカだということなのか。
この疑問に答えてくれるのは、もしかしたら「安心願望」にあるのかもしれないと、あるブログを読んで感じました。

診療関連死の理念に異を唱える
http://blog.so-net.ne.jp/case-report-by-ERP/20080102
-----(ここから引用)-----
(1)医療とは、患者・家族と医療従事者が協力して行う病との闘いである。したがって、医療が安全・安心で良質なものであるとともに納得のいくものであることは、医療に関わる全ての人の共通の願いである。

最近のエントリーで、私が主張しているのは、病気・死は、各個人が受け容れるものであるということです。医療者は、その受容のプロセスを援助する一支援者に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないというのが、私のスタンスです。上記理念には、「闘い」とあります。この時点で、厚生労働省のお役人たちの頭の中には、『病気=悪 ∴闘うもの』というイメージしか描けていないのだろうなあと私は思います。

安全と安心が並列的に記載されています。 大きな矛盾です。安全は、人の心の外にあるものです。一方、安心は、人の心の中にあるものです。人の心は、千差万別です。悟りを開くような達観した心の持ち主から、「モンスター○○」などと称され常識を逸脱した物の考え方をする心の持ち主まで、世の中には確実に分布しているわけです。当然、その人たちの間では、感じ方が全く異なるであろうし、たとえ同じ人でも、置かれている状況次第で、安心できたり不安になったり、感じ方は様々でしょう。従って、「医療が安心できるものかどうか」というものは、その人自身の感じ方の問題であり、社会目標にはなりえないと私は考えます。安全・安心を理念の中にさりげなく併記することは、読み手を変に勘違いさせる不適切な表現だと私は思います。社会としては、「医療安全」だけを目指すのが筋と考えます。理念の中に、「安心」は不要というのが私の主張です。
-----(引用、終わり)-----

「安心」は、各個人の心のありよう、持ちようの問題であり、それは他者が立ち入るような問題ではない。一方、「安全」は「人の心の外」にあって、社会として、国として目指すべき目標だと。
私もその通りと思います。
もちろん100%の「安全」などあり得ないが、「より安全な」ということは目標たり得るものです。

厚労省の第二次試案も、自民党案も、この「安心」と「安全」を混同、あるいは取り違えている。
そして、こういう案が、国の機関や与党である大政党から出てくるということは、この国の多くの人も同じような心性を持っているのだろうと推測できる。
これは、病根が深いようだ。

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